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2026-02-25

年金事務所は、静かな戦場だった。

整理番号の紙を握りしめた老人たちが、無言で座っている。

誰もが順番を待っているが、何を待っているのか完全には理解していない。

金を受け取るために来ているのに、その仕組みが分からない。

それが年金という制度の本質だ。

一度聞いた。理解できなかった。

YouTubeも見た。余計に分からなくなった。

専門用語は、理解させるためではなく、理解を諦めさせるために存在しているようだった。

だから二度目の訪問だ。

待合室には、私より年上の男たちが並んでいた。

背中は丸まり、目は遠くを見ている。

彼らは長い間、社会に金を払い続けてきた。

今は、その返金方法を教えてもらうために座っている。

夫婦で来ている者もいる。

そういう場合、たいてい妻の方がしっかりしている。

男は黙って座り、妻が質問し、妻が理解し、妻が覚える。

男はただ、そこに存在しているだけだ。

年金も、人生も、最後は誰かの理解力に依存する。

代理人もいる。

相続人もいる。

本人はもう理解できないか、理解する前に退場したのだろう。

制度は本人のためにあるはずなのに、最後は本人の外側で処理される。

税金も同じだ。

複雑にすることで、誰も全体を把握できなくなる。

理解できないものには、抵抗もできない。

番号は、なかなか進まない。

この待つ時間にもコストがかかっている。

ここにいる全員の時間を金に換算すれば、かなりの額になる。

説明する職員の給料も、建物の維持費も、すべてが年金のコストだ。

制度は金を配るために存在するが、同時に金を消費するためにも存在する。

やっと番号が呼ばれる。

職員は丁寧だった。

ゆっくり説明してくれた。

分かりやすい言葉を選んでいるのも分かった。

そして私は理解した。

理解したはずだった。

だが、それは錯覚だ。

理解とは、その瞬間だけ存在する。

帰り道で半分消え、家に着く頃にはほとんど残っていない。

一週間後には、完全に消滅する。

だが問題はない。

理解していなくても、金は振り込まれる。

理解していても、していなくても、老後は同じように進行する。

制度を理解することよりも、制度が存在していることの方が重要なのだ。

私は書類を鞄に入れ、年金事務所を出た。

太陽は出ていた。

だが、その光がいつまで続くのかは、誰にも分からない。

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